戦後唯物教育の申し子だった私が、そこそこ不思議な体験を重ねて、あの世や神様、魂を認めるようになったいきさつです。

私の体験

私の体験

「この世に神も仏もあの世も魂もあるもんか!不思議なんてない!科学がすべてを解明している!」 

 

 そういう方もいらっしゃるかと思います・・・というより、そちらのほうが社会の大勢ですよね。
 戦後の「唯物教育」の成果です。
 戦前の神国日本への反省から、我々日本人は完全な唯物教育が施され、社会全体に科学合理主義が蔓延するようになりました。(私より少し上の世代、いわゆる団塊の世代に宗教や神秘的なものに対する反発がより強いのは、戦前の権威をすべて否定する風潮の中で育ったからだというお話を聞いたことがあります)
 かくして無神論無宗教主流の国日本が出来上がったのではないでしょうか。

 

 「人間はモノ、世界もモノ、モノだからすべて別個バラバラ。絆なんて言っても、家族親族友人とかならともかく、遠くの国の飢餓とか戦争とか、関係ないだろう」
 「神や仏なんていないし、科学が発達していなかった頃の古代人の空想。まともな奴は神仏なんて口にしない。科学は神仏なんて存在しないって言ってる。仏ほっとけ神かまうな。」
 「人間は死んだら終わり。人生は、どれだけうまく立ち回って、成功と金を手にするか。他人のことなどかまっていられない」
 「宗教なんてただの妄想か金儲け。頭のおかしな奴らが狂信してる。俺は騙されない。俺はわかってる」

 

 私もそう思っていました。
 でもアメリカでは90%の人が「神」の実在を信じているそうです。
 イスラム圏では(当然ながら)パーセンテージもっと高いでしょう。
 チベットでは、中国共産党の唯物教育もむなしく、輪廻転生信じていない人はいないとか。
 身近なところでは、沖縄では学校の予算にユタ(沖縄の巫女さん)のお払いに充てる分が用意されているそうです。
 私たちの常識は、実は、国や時代に押し付けられたものではないでしょうか?それを無批判にただ受け入れてきただけなのではないでしょうか?
 私も「世界はモノである。人間はモノである。神仏はインチキ。神秘は脳内現象の産物。金と成功と快楽がすべて」と、あらゆる機会に教わりましたし、周囲も信じていませんから、まったく考えたこともなかった。
 でも実は、宇宙は私たちが思う以上に、とてつもない構造を持っているのかもしれません。

 

@金縛り
金縛り
 私は性格に難がありましたので、小学校高学年から仲間外れとなり、中学高校と一貫して仲間外れのままでした。結果として精神を病むことになりましたが、高校の頃から、横になってすぐに眠れないと、耳元で「シュッシュッ」というような風を切るような音がして、いわゆる金縛りになり、「目に見えない怖い人」がのしかかってきたりするようになりました。無理やり体を動かせれば解けるんですが・・・。
 これが、ほぼ毎日起こって、本当に閉口しました。今思えば、彼らの住む暗い世界に自分の心が通じてしまっていたんですね。同じ波長というんでしょうか。チャンネルが合ってしまってた。でも当時はそんなことわかりませんので、どうしていいのか全くわからず、誰にも相談することもできず、悲惨な青春時代を過ごすことになります。

 

A引きずり出される 
体験 上京して少しした頃、休みの日に自分の部屋で居眠りをしていると、複数の人の手でさすられるような感覚があるのです。なんか気持ちいいな〜と思っていると、不意に腕を(その複数の人に)つかまれ、グイ!と体の中から引きずり出されたのです。つまり、体の中というんでしょうか、肉体にぴったりと重なる目に見えない体があって、そちらを引っ張られたわけです。(そういう目に見えない体を、GLAでは光子体と呼びます。一般的にはサトルボディと言うそうな)私が、ギャッとわめいて、腕を引っ込めようとすると、複数の手は私の腕を、パッと離し、私はピシャリ!と自分の身体に戻ります。そして今度は、その手で足をつかまれて、また引きずり出されました。私がじたばたすると、見えない相手はまた手を放し、私はピシャン!と戻ります。私はものすごい勢いで飛び起きて、部屋から逃げ出しました。
 ほとぼりが冷めて、恐る恐る戻ってみても、別に何もありません。
 コントみたいな話ですが、本当に起こったことです。
 金縛りはその後も続きましたが、「引きずり出された」のはこれ一回のみでした。

 

B赤いTシャツの子 
 郷里の岩手に帰って(都落ちとも言う~~;)からなのですが、朝方、やはり風を切る音とともに金縛りになりました。もうこのころは金縛りもほとんど起こらなくなっていたのですが・・・。すると来たのは「怖い人」ではなくて、自殺したという中学生の女の子でした。彼女は(何に対してかはわからないのですが)ひどくイライラして、絶えず怒っていました。誰々ちゃんが悪いとか、誰々ちゃんのせいだとか、絶えず言い訳をしていました。ただ、まったく話の通じない人ではなく、会話ができるので、その辺が面白かった。
 朝で、すぐ出勤なので起きだしたら、何と消え去ることなくまだ彼女の声が聞こえます。ふつうはその時点で接続?が切れてしまうのですが。
 私が仕事に行くけどついてくる?と言うと、パッと私の肩に乗ってきました。
 足の感触はあるのですが、重みはほとんど感じません。
 移動中、彼女はしきりに周囲を見渡していました。警戒しているのです。それは、彼女が自殺してから過ごしてきた日々の苦労を思わせるものでした。
 私は警備員を仕事にしていますが、その日の現場はいわゆる「おいしい現場」で、一人で歩行者を誘導するヒマな現場でした。
 私については来ましたが、彼女のイライラは変わらず、心の中で話しかけても、取りつく島もありません。 
 で、ホンの思い付きだったのですが、彼女に音楽を聞かせてみようと思ったのです。多分自殺してから、音楽を聴く余裕なんてなかったでしょうから。私は心の中で好きな冨田勲の「月の光(ドビュッシー)」を再生してみました。
 と、彼女、耳を傾けて、一生懸命聞いているのです。私は、日本ビクター(今はケンウッドらしいですね)の商標の犬を思い起こしました。それぐらい熱心に聞いていました。

 

 そして、不意に、いなくなったのです。

 私は「誰かが連れて行ったんだな」と思いました。

 

 それから、すぐだったと思うのですが、非常に鮮明な夢を見ました。
 抜けるような青空のもと、青々とした緑が萌える山に、ビルが何軒か建っている、田舎の古びた温泉地みたいな場所が見えました。私は昔のデパートの屋上のような場所に座っていて、私の正面に二人の人物が座っていました。陽光のせいか、非常に明るい場所でした。
 左側に緑色のポロシャツを着た若い男性。そして右側には、目に染みるほど鮮やかな赤いTシャツを着たおかっぱ頭の女の子が座っていました。女の子は、何が嬉しいのか満面の笑みを浮かべています。二人はしきりに話していたのですが、女の子が私の方を向いて突然「私、この人に助けられたの!」と言ったのです。
 赤いTシャツの女の子はあの自殺した子だったようです。たぶんポロシャツのお兄さんに私を紹介してくれたのですね。でもお兄さんの方は、女の子とは対照的に、何がマズいのか実に渋い顔をしているのです。私は夢の中ですからさっぱり状況が飲み込めず、ボーとしておりました。
 そこで目が覚めました。「あの世の入り口みたいなところだったのかな」と思いました。女の子の明るい笑顔と、対照的にお兄さんの渋い顔が非常におかしかった。女の子の鮮やかな赤いTシャツが非常に印象的でした。  

 

C天に飛ぶ 
 またある時、とても心が「肯定的」というのでしょうか、具体的には言えないのですが、非常に明るい気持ちになってそのまま眠ったことがありました。常に「下向き否定的心真っ暗」な私にしては、大変珍しいことでした。
 そして夢を見ました。
 私は、大きな動物にまたがって、空を飛んでいました。
 動物は白い毛でおおわれていて、私はその毛を両手でしっかりつかんでいました。映画のネバーエンディングストーリーにファルコンという犬顔の竜(原作のフッフール)が出てきますが、それに似ていたと思います。天に飛ぶ
 隣を、三人?の子供が、同じ動物に乗って飛行していました。
 子供たちは歓声を上げていました。
 下界に広がる広大な山々や川は、透き通る陽光に照らされて光り輝いていました。あの川の流れの細かいきらめきまではっきり思い出すことができます。
 とても気持ちがよかった。
 なぜなら、私の体の中を、温かい風が吹き抜けてゆくのです。私の胸にまるで大きな穴でも開いたかのように、何とも言えない気持ちの良い風が吹き抜けてゆくのです。
 私は「気持ちいいなあ、気持ちいいなあ」と思っていました。

 

 そこで目が覚めました。
 両手に動物の長い毛の感触や、温かさがはっきりと残っていました。
 それ以上に驚いたことがあります。
 いつも私の胸を占領している赤黒い塊、私の病んだ心が無いのです。
 「あの世も魂もあるもんか」と思っている方は、ものごとは脳で考える、感情の出どころも脳と考えておられるでしょう。でも違います。目に見えない「魂の座」が胸にあって、そこが思考感情の中枢です。脳は肉体と魂をつなぐ霊的な器官です。不安や恐怖を感じると胸苦しくなるのは、そこに魂があるからです。
 それがありません・・・いや、すぐに、無いのではないことがわかりました。
 体の下の方、おなかのあたりから何か大きくて暖かいものが現れて、心は針の先ほど小さくなって喉元までせり上がっていたのです。
 「胸に穴が開いた」と感じたのは、このためでした。
 なんとも楽で、身心が軽く、幸せでした。
 その状態は午前中は続きましたが、午後2時か3時ごろになると悪夢のようにすっかり元の自分に戻っていました。
 あの、暖かい大きなものは何だったのでしょうか・・・。忘れられない体験です。 

 

Dまとめ 
 他にも色々とありますが、私はこういう体験から、否応なく唯物的な世界観を捨てざるを得ませんでした。        
 人間は魂であり、あの世もあるし、そういう世界と魂の基底に人間が神仏と呼ぶ「なにか」も存在するだろう…と考えるようになりました。
 いわゆるシャーマン(未開社会の呪術師)は、何らかの儀礼や、修行によるとてつもない体験を経て、冥界と現世を行き来する力を得るわけですが、私も恐ろしい孤独の苦しみから、狂気の世界に入り込みかけて(GLAのTさんという先輩に助けていただいたのですが)その万分の一かもしれませんが、シャーマンの体験に近いものをしたのではないでしょうか。そして、冥界の存在に出会ったり、冥界そのものに赴き、不思議な動物に乗って天を飛ぶ体験などしたのだと思います。

 

 よく神仏などいないという方が「もし神がいるなら、なぜ世の中の悲惨な現実を見過ごすのか。神の力で助けてやればいいだろう」とおっしゃいます。
 その通りです。
 でも「数のマンダラ」の6の項で書いたように「第二の創造は神の子の手で行われる」のです。だから、神はあなたを地上に派遣されたとは言えないでしょうか。世の悲惨を正すため、あなたは神に使命を託されてこの世界にやってきたのです。少なくとも私は師匠にそのように教わっています。

 

 私は願っています。
 人生の残り時間、わずかでも地域や仲間、日本と世界の役に立ちたい、何か自分にできることをしたいと思っています。
 小さな奇跡でもよいので起こしたいです。
 創造の花を一輪でも咲かせて死にたいと願っています。

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