私の考えるマンダラ

コラージュ

 

皆さんは、マンダラというとどのようなものを思い浮かべられますか?仏さまが、円や四角の中心から多彩に展開する密教の伝統的マンダラでしょうか?それとも、花模様のようなマンダラアートの作品でしょうか?または、アートセラピーで用いられるマンダラ塗り絵でしょうか?
 マンダラ(曼荼羅)という言葉を生んだ密教(神秘主義的仏教・原始仏教〜大乗仏教に続く最後の仏教)では「密教の世界観を図画の形で現したもの」「神々の住む楼閣の俯瞰図」「経典の絵画化」「神髄を持つもの」「悟りの世界を現したもの」などと定義され、学習や儀礼、修行に使用されます。
 ヒンドゥー教やジャイナ教もほぼ同様で、この二派ではマンダラではなくヤントラ(機械・道具)と呼ばれ、観想などに用いられるようです。
 ナバホ族の砂絵は、メディスンマンと呼ばれるシャーマンが行う治療行為に使用されます。地面に砂で書かれた神話的世界を憑代(よりしろ)として神を招き、その神の力で患者を癒そうとします。
 アートセラピーのマンダラは、本来の自己(セルフ〜自我だけでなく無意識も含めた大きな自分)と自我(エゴ〜五感を基準として形成された小さな自分)が分離しているのが心の病のもとであるとの観点から、マンダラ的絵を描くことで、自我からは思いもよらない自己、または世界の発見を通して両者の統合と飛躍を目指すもののようです。(と、私は理解しております)

 

 それぞれ見た目はずいぶん違いますが、唯一共通しているものがあります。
 それは「円」が描かれてているということです。おおむね「円」を基本としています。マンダラという言葉も、サンスクリットという古代インドの言語で「丸い」という意味だそうです。 
 でも空海の両界曼荼羅はどちらも長方形で、あまり円が目立ちません。光背ぐらいでしょうか。これはインドから中国へ伝来してから変わったもので、インドから直接密教が伝わったチベットの作例では、やはり円の中に描かれているのです。

 

 マンダラは、宇宙の究極の真理は言葉では表せないので、図像の形であらわしたものとされます。そしてそこに円が頻出するということは、「円」と「真理」はつながりがあるのではないでしょうか。

 

 円とはなにか。
 数学的には「平面上の定点0(ゼロ)から等しい距離にある点の集合からできる曲線のこと」とか「中心から見ると、あらゆる方向に均等な図形」とか「完全対称性を持つ美しい図形」などと定義されるようです。
 また、私たちが円に対して抱く一般的な印象として、調和、円満、福徳、循環、完全で欠けるところのないもの(輪円具足)などがあります。
 そして、私はこう思っています。

 

 「円は、『永遠』や『無限』が、私たちの世界に形となって現れたもの」ではないかと。

永遠のかなた

 

 円は、始まりも終わりもない図形です。というより、円は始まりと終わりが一つになったものと考えられないでしょうか?
 我々が住むこの物質宇宙は、一切が相対、対立、二元性でできています。
 「始まりと終わり」「過去と未来」「極大と極小」「快と苦」「生と死」「有と無」「陰と陽」「聖と俗」「幸と不幸」「敵と味方」「男と女」・・・。
 この対立こそ物質宇宙の絶対条件であり、人間の悲苦の源泉です。
 でも円はこの対立、二元性を超えています。
 「始まりと終わり」というこの世界の根幹にある対立を超えているからです。
 そして、対立を超えているということは、この世界のものであっても、この世界のものではないということです。二元性は越えられなければならない。第三の方向性、価値、意味の発見こそ人間を人生と世界の深奥に導くものと考えます。

永遠のかなた

 「過去と未来」を超えたところに、生きるべき現在が現れます。
 「極大と極小」を超えたところに、宇宙は真の姿を開示します。
 「快と苦」を超えたところに、本当の人生があります。
 「生と死」を超えたところに、宇宙を旅する魂が見出されるでしょう。
 「有と無」を超えたところに、自由があります。
 「陰と陽」を超えたところに、道(タオ)があります。
 「聖と俗」を超えたところに、真の神性は現れます。
 「幸と不幸」を超えたところに、本当の人生が見出されます。
 「敵と味方」を超えたところに、真の友情があるのではないでしょうか。
 「男と女」を超えたところに、神の子が現れるでしょう。
 そして「始まりと終わり」を超えたところには、「永遠」を見出すことができるのではないでしょうか。

 

 以前、アメリカの神話学者ジョゼフ・キャンベルの「神話の力」という番組が、NHKで放送されたことがありました。現在もYoutubeなどで見ることができますし、単行本の文庫版が発売されています。
 その中でキャンベルは「永遠とは宇宙の最高原理」「永遠はいつまでも続く時間のことではない」「永遠が、人間レベルに小さくなったものが我々の目には神として映る」と言っておられました。
 宇宙は138億年前に無から突如として誕生したとされます。それまでは、無ですから時間もなかった。そして宇宙は(どのような形かはわかりませんが)宇宙自身の死に向かって、超光速でひた走っています。つまり、この大宇宙も、二元性の中にあるものです(時間が「過去から未来」へ、一方向にしか流れないのは、時間が、二元に支配された、この世〜物質宇宙の属性だからです)。
 しかし、永遠は違います。
 「時間の外」にあるものだからです。
 我々が今住んでいる宇宙は、縦・横・高さの三次元に、時間を加えたものです。始まりと終わりのあるものです。ですから、永遠はこの世界のものではありません。
 無限も同じだと私は考えております。
 どこまでも広がる空間や、距離のことではなく、それらを超えたもの。有限の世界を超えたものです。
 無理数という数があります。円周率πが一番わかりやすいですが、循環せず不規則な少数が無限に続きます。終わりがありません。それは、円が「無限正多角形」だからだそうです。
 終わりがないということは、永遠と同じです。

 

昔日の修行者

 

 円は永遠・無限であり、二元を超えているからこそ、神仏とその世界を現すのにふさわしい、もっと適した図形なのではないでしょうか。神仏〜大いなる存在は、二元性・対立を超えているからこそ神であり仏なのですから。
 昔日の修行者たちはそれを直感的に知っていたのだと思います。
 厳しい修行を通じて、永遠や無限を感じていました。
 そして、神々をマンダラ(円)の中に描き込んだのではないでしょう。

 

 私も、永遠を一度だけ感じたことがあります。
 若い頃、心が奈落の底に落ちるような経験をしたことがあって、GLAの先輩に教えられた方法を、それこそ藁にも縋る思いで実践したことがありました。すると、ちょっとした神秘体験?とともに、落ち込んでいた心が少しだけ持ち上ったのです。そうしたら、体の下のほうから、とてつもなく巨大な「何か」が接近してきました。いや、私が接近したというべきでしょう。とても固いもの。絶対に壊れない、絶対にゆるぎない「何か」。
 そして思いました。
 「これは宇宙の中心だ。宇宙の中心がゆるぎないから、宇宙は壊れずに存続している。これが神なのか」と。
 また、このとてつもない「何か」という宇宙の中心を、何故か、卑小極まる自分も共有している。私もまた、この中心の反映であると感じました。

 

 それが、その後、「神話の力」を観て、キャンベルが言っている「永遠」に触れた瞬間だったことに思い至りました。

 

 また、ある宗教学者の方の胎蔵界曼荼羅の解説を聞いたとき、胎蔵界曼荼羅に描かれる宇宙の在りよう〜宇宙は大日如来の子宮であり、そこにある一切の存在(如来、菩薩、明王、神々)を、母が子を大いなる慈悲を持って育てるように、最外部の六道を輪廻する者たち(私たちのような)まで含めた者たちを慈しみ育てている・・・それもただ育てるのではなく、仏性(菩提心)を育て、悟りの世界に導いているのだ・・・と聞いたとき「これは本当のことだ」と思いました。

 

 例えば今、世界中が苦しんでいるコロナ禍は、明王の顕現ではないでしょうか?
 地球唯一の知的存在としての自覚も、大自然への感謝もなく、目先の欲得のみに集中し、憑かれたように暴走を続ける人類に、兄貴分である明王が現れて一撃を加えたように思われてなりません。

 

 そして、如来、菩薩、明王はもとより、最外部の有象無象の神々(私たち人類や自然界のものたち)まで、全存在が大日如来の子、化身なのだそうです。宇宙は大日如来の身体であり、その中にある我々生類や自然、そして巻き起こる様々な事象に至るまで、大日如来のいのちが宿っている。仏性をはぐくみ育て、悟りの世界に導こうとしている。太陽のように、何の見返りも求めずに、大慈悲の光を注ぎ続けている。
 そして、如来、菩薩、明王はもとより、最外部の者たち(私たち人類全体)まで、全存在が大日如来の子、化身なのだそうです。私たちのいのち、魂の奥に宇宙の生命である大日如来がいる。セレブも貧乏人も、悪人も善人も、天才も愚か者も、偉人も役立たずも、若者も年寄りも、聖者も悪魔も、虫も魚も、鳥も動物も、草も樹も、海も山も、天も地も、恒星と惑星も、銀河と銀河団も、大宇宙の大生命、大日如来のいのちを共有しています。

 

 私には、胎蔵界曼荼羅の示す真理は、事実そのものとしか思えない。
 マンダラは、宇宙の真の姿を映していると思っているのです。

 

 マンダラは本当に生きています。中心にいるのが大日如来であろうが、キリスト教のGodであろうが、天照大神であろうが、ナバホ族の太陽神であろうが、かまいません。いずれも、宇宙の中心にいる、宇宙の生命である唯一の存在を、地域、歴史、文化の中で、それぞれに表現したものです。
 マンダラは、永遠である「大いなるもの」が宇宙の中心にいて、この宇宙は「大いなるもの」の身体であり、我々生類だけでなく、日月星辰山川草木一切が、この「大いなるもの」の子で、唯一のいのちを共有している。そして、「大いなるもの」は、すべての子供たちの仏性を開花せしめ、より高次の宇宙、対立を超えた自由の世界に子らを飛翔させようと導いている・・・という事実を、図画の形で表現していると信じております。

 

 これが私の考えるマンダラです。
 次は、「Number 9」についてご説明したいと思います。


トップへ戻る