数の探求
ここでは偶奇と、0から9までの数の持つ意味を探求したいと思います。
偶奇
「偶数」
2で割り切れる整数、または2の倍数である整数。それゆえ0も偶数なのだそうです。0=0÷2、0=0×2ですから。
偶数から私が連想するものは、陰陽の陰、女性原理、静的、自然、受容、肯定、慈悲、母性、真理、ありのままの世界、梵(ブラフマン)・・・そのまま胎蔵曼荼羅の世界だと思います。
中心の大日如来から、世界は放射状に広がります。大日如来の化身たちは、如来、菩薩、明王、天部の神々と、真理法則に従って世界に展開し、配置されます。
胎蔵界曼荼羅の一番端のほう「外部金剛院(げぶこんごういん)」には、六道を輪廻する者たちが描き込まれています。バラモン、ヒンドゥー出身の天部の神々のほかに、地獄や餓鬼界の住人も・・・。この混沌は、そのまま私たち人間の世界です。
でも、そんな私たちも大日如来の子であり、化身であり、だからこそ仏性(如来蔵)を持っています。
「奇数」
2で割り切れない整数。
陰陽の陽、男性原理、動的、人工、攻撃、否定、愛、父性、智慧、創造される世界、我(アートマン)・・・金剛界曼荼羅です。
金剛界は九会に分かれますが、修行者はここをたどって大日如来との合一(梵我一如)という悟りの境地を目指します。これを向上門(こうじょうもん)と呼びます。修行の方法は、「三密加持(さんみつかじ)」と呼ばれるもので、身(しん〜印を結ぶ)口(く〜真言を唱える)、意(い〜イメージを描く)で、徹底的に仏を真似て、仏との合一を果たそうとするものです。
向下門(こうげもん)もあり、これは悟りの果実を世界にもたらすことです。
・両部(金胎)不二
そして両曼荼羅は不二です。二対で宇宙を形作っています。偶数奇数が二者で数の宇宙を形作るのと同じです。
両界曼荼羅が真実不二なら、真理の宇宙に在る者たちは、九会、九つの段階をたどって、宇宙の中心にいる大日如来という霊的太陽、本源、神、大いなるものへの接近と到達を宿命づけられているのではないでしょうか。
生をいただいて生きるということは、宇宙の中心へ接近すること(金剛界)と、その果実を六道世界の衆生にもたらす(胎蔵界)という運動そのものであると、そういう目的と方向性を、否応なく持っているということになります。
0
偶数。陰。女性。無。空。無限定。永遠。円の中心(0点)。
完全形であり、万物の起源であり、万物を包含する全一者。イスラム教の「神の本質」。また、0は円に通じるところから、円と同様の象徴的意味を持つ。究極的神秘。絶対。
道(タオ)道は一を生ず。1は陰陽を生む太極でしょうから、それ以前に存在した道は無0から生じたのでしょうか。老子は無が空っぽなのではなく、ありとあらゆる可能性を含み持つ状態としています。
「天下の物は有より生じ、有は無より生ず」
整数に0を足しても引いても、元の数のまま変化しません。でも0を掛けるとすべて0にしてしまいます。同じように0を整数で割ると0。ただ整数を0で割ると「答えなし」になってしまいます。一個のリンゴを0にするとは、どこまでも細かく切り分けることですが、それは無限・永遠につながってしまいます(一部Web電卓だとInfinity〜無限〜と表示されます)。
また0÷0だと答えは「なんでもよい」のだそうです。
0÷0=7
0÷0=1940
0÷0=ー8
すべて正解となります。
なんとも不思議です。
影に隠れたり、食い尽くしたり、無限が現れたり、何でもよかったり・・・。
自在ということ?
無→真空
真空には、発生源不明のエネルギーが(それも無限大の)充満していて、宇宙はそこから生まれたとされています。真空から、多数の量子(粒子性と波動性を併せ持つ物質)が頻繁に出現しているのだそうです。無限大のエネルギーとは何なのでしょうか。老子の説いた、無が抱くとてつもない可能性のことでしょうか。
1
奇数。素数。陽。男性。始まり。点。太極。極小。未分化。宇宙卵。原初の融合状態。始原的両性具有。エデンの園。1を神性や創造主とする場合もあるようです。
有は無より生ず・・・0は無ですので最初の有である1は極小となります。
極小と言えば素粒子ですが、素粒子もさらにそれぞれ6種類のクォークやレプトンに分割されます。0でも触れましたが、電子同様これらも量子であり、真空の量子エネルギーにつながります。
「一は神話的思考においては宇宙の万物、つまり多の対立面として、創世以前の神秘的状態や神秘的存在の象徴なのである」(中国神秘数字)
混沌の神話を思い出します。目も鼻も口もない混沌を憐れんで、他の神々が混沌に人間の七穴をあけてやりますが、混沌は死んでしまい、そこから秩序ある世界が生まれた・・・というものです。
エデンの園も、この混沌(原初の融合状態)を表していると考えます。
2
偶数。唯一の偶素数。陰。二元性。分裂。分割。離別。葛藤。差異。不一致。相対の組を作るもの。対立物(錬金術の統合されるべきもの。王と王妃、月と太陽、硫黄と水銀など)。一つのものの別々の側面。あの世とこの世・・・。
もともとは、一切が一つであり、融合と調和の中にありました。それが、2により分割された。2はすべてを分割し、一切が二元で形作られる対立の世界が始まります。
梵我、陰陽、過去と未来、天地、有無、大小、快苦、男女、遠近、身心、正不正、善悪、敵味方、浄不浄・・・。
眠りの中にあったエデンの園にも事件が起こります。イブが蛇の誘惑され、禁じられていた智慧の木の実を食べてしまいました。でも、人間は蛇の誘惑に乗らなければ、エデンの園を出て冒険の旅に出ることはありませんでした。その旅がどんなに悲惨な結末の連続でも、混沌の中で眠っているよりは意味があると思います。
3
奇数。陽。創造力。生命力。活動。三原色。三角形(最初の平面図形)。様々な三つ組み。物質の三態(個体、気体、液体)。三次元(縦・横・高さ)。基本的リズム(はじめ・中・終わり、過去・現在・未来、誕生・生・死)。三位一体(父、子、聖霊)。三神一体(ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ)。家族の基本的単位(父・母・子供)。三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)。三宝(仏・法・僧)。魂(生命)の数(数4の肉体に対する)。三つの誘惑(仏陀、イエス)。三つの願い。三度目の正直。
二元の世界に神が現れること。神(9)の分子。第三の道の発見。
「3は神秘的に円と関係している。というのは、円は一本の直線上に位置しない任意の三点を通り描かれるからだ」(ジョン・キング 数秘術)
胎蔵界曼荼羅を生んだ大日経には「三句の法門」という素晴らしい教えがあります。
「菩提心(仏〜悟り〜を目指す心)を因とし、大悲(大いなる慈悲の心〜他者の苦しみ悲しみを自分のこととして感じられる愛の心)を根とし、方便(実践)を究竟(くきょう〜物事の最後に行きつくところ)とする」
「悟りを求める心を行動の動機とし、大いなる慈悲ーすなわち、他の存在の悲苦に共感する愛の心を根本とし、それらの実践をもって究極とする」というような意味でしょうか。大日経が登場するまで、「実践(衆生救済・抜苦与楽)」は、あまり重視されていなかったのだそうです。自分の救済に一生懸命だったとか。大日経(=胎蔵界曼荼羅)が登場して初めて、抜苦与楽の実践が、菩提心や慈悲と並置され、同じ価値を持つとされました。それは神仏の心を自分の心とするということで、ただ自分の悟りしか頭にない低レベルの宗教からの飛躍を意味します。
「一が二を生み、二が三を生み、三が万物を生む。万物は影を負い、陽を抱き、沖気をもって和をなす」(老子)
何故三が万物を生むんでしょうか?
無という道は、有という一を生み出し、一は天地という二を生み出し、二は陰陽の気が加わって三を生み出し、三は万物を生み出す。万物は陰の気と陽の気を内に抱き持ち、それらの気を交流させることによって、調和を保っている。または、例えば男女相和して新たな生命が誕生する。
三によって相反する陰陽のエネルギーが交流し、そこからダイナミックな創造が行われるということでしょうか。結果的に、「三」で生じた万物で「四」に表される世界が生じるわけですから。
3は、右か左かとか、敵か味方かとか、与党か野党かとかの単純な二元を超える〜第三の方向性を求め、まったく新しい世界を開拓しようとするからこそ「創造」を意味するのではないでしょうか。創造=神ですから、神の子としては、第三の創造的な道を探す以外ないということです。そうしてこそ新しい生命を持った現実が生まれる。より高い次元の現実が生まれるわけです。
創造=神=生命
こういう等式が成り立ちます。
上はイスラム教の楽園追放の絵ですが、悲劇という感じがしません。
1であるエデンの園にいたアダムとイブは、混沌の一部でした。しかし蛇の誘惑に乗り、智慧の木の実を食べて、他と自分を分けるようになり、楽園を出ることになります。でも、二人に悲壮感は感じられず、堂々としてやる気満々みたいに見えます。蛇は花をささげて二人の旅立ちを祝福しているように見えますし、天使はとてもうらやましそうです。
「再統合」(試練を経ての神のもとへの回帰)という挑戦と創造の旅に出る二人を、楽園の混沌の中で働くしかない天使は、心底うらやんでいるのではないでしょうか。
以上から、私は数3は神、創造と生命に関連しているのではないかと思います。
4
偶数。陰。静。最初の立体(四面体)。四方位(東西南北)。四大天使。四季。四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)。完全性。世界。大地。大自然。宮殿。秩序。正義。十字路。肉体の数。
アメリカ先住民の砂絵の儀式的な数
三は動態の完全象徴。四は静態の完全な象徴。
古代中国では、世界は四角(正方形)だと思われていました。中華周辺を四荒国と四海が取り囲み、各頂点は四極と呼ばれていました。
ヨーロッパでは、正方形は四大元素と結びつき、地上世界、権威、王国、帝王を表していたそうです。
・素粒子物理学の自然界の四つの力
1.電磁気力(電気と磁気。光子によって伝わる)
2.弱い力(素粒子を形作るクォーク、レプトンに働く力で、原子核のベータ崩壊などの原因となる粒子の種類を変えることのできる力。ウィークボゾンによって伝わる)
3.強い力(電気的斥力を持つ陽子同士を結び付け、中性子と共に原子核を作る力。グルーオンによって伝わる)
4.重力(質量のあるものを引き寄せる力。重力子によって伝わる)
これが自然界の基底に働いている四つの力です。
この四つの力を統一的に記述できるようになると、宇宙そのものの解明につながるそうで、最近よく聞く「ひも理論」は、そのために研究されているのとのことです。
・ナバホ族の砂絵(呪術的治療に用いられる)は、基本的に4(または8)を基本とした構造を持っています。
「4はアメリカ先住民の儀式的な数であり、これと関係のある儀式は、宇宙の四方空間に対する象徴的なよりどころである」(キャンベル)
なぜか東側に当たる部分が開いているものが多いのですが、これは神を招くときの通路として開けてあるようです。この四方位と中心(円の中心)はそのまま宇宙・世界の中心を表しており、治療を受ける者がその中心に立つことにより、不調和が正され、招かれた神の力も正しく働いて、心身の癒しにつながるのではないでしょうか。
以上から4は、3によって創造された(または生命を与えられた)四方位を持つ世界、物質宇宙、自然界を表すのではないかと思っています。
5
五芒星。五行。四台元素の中心(神性、神の息吹)。人間。聖痕。五仏・五智。アポロの特性(全能、全智、偏在、永遠、統一)。肉から復活する精神。キリストの昇天。魔術の象徴。護符。
・五行(陰陽五行思想)
五行は万物が火、水、木、金、土の五元素からなるとという古代中国の説。
五元素は互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環するという考えから生まれた思想です。四季の巡りは五行の推移によっておこると考えられました。
・五芒星
小宇宙としての人間、人体、全体、完全性と力の象徴、古代ギリシャの生命のシンボル。
五芒星は「お星さまのマーク」としてだれでも最初に覚える芒星図形ですが、実はこの中に黄金比φ(ファイ)が隠れています。
黄金比φは、建築や美術分野で用いられる比率で、1:約1.618のことです。約なのは、円周率同様無理数だからで、本来は1.6180339887・・・・と、永遠に続きます。
ピラミッド、パルテノン神殿、ミロのヴィーナス、モナリザの顔、凱旋門、サグラダファミリア教会などに、黄金比が使われています。何故かというと、一見して安定的で、美しく見えるからなのだそうです。
身近なところではクレジットカードから煙草の箱、AppleやGoogleのロゴにまでこの、黄金比が使われています。
そして、何故か五芒星にも黄金比が隠されています。
線分Aと線分B、線分Cと線分Dは、正確に1:168・・・の黄金比になっています。
また、黄金比について調べると必ず出てくるのがフィボナッチ数列です。
「1,1で始まり、前の2項を足すと次の項になる」というルールで作られた数列ですが
1 1 2 3 5 8 13 21 34 55 89 144 233 377 610 987 1597 2584 4148 6765 10946 ・・・・・
列の後の数をその前の数で割ると、数が大きくなればなるほど黄金比1.618・・・に近づいてゆきます。
自然界にはなぜかこの数列が頻出し、植物の葉の付き方(葉序)や、パイナップルのような集合果の房の付き方、ヒマワリの種の配列などにフィボナッチ数列が現れます。
植物の葉は光合成のため、どの葉にもまんべんなく光が当たることが重要です。φのらせんはどこまでも重ならず均一に広がります。そのため全く偏りが生じません。そしてなぜ自然界に黄金比が現れるかのかは、まだ結論は出ていないのだそうです。
五芒星は古代ギリシャでは生命のシンボルとされました。
また、人体にも黄金比が現れています。
左図は16世紀の隠秘学者H・C・アグリッパの著作にある図ですが、「小宇宙としての人体」または「人体と宇宙の照応関係」について表したものです。五芒星の比が、そのまま人体にも現れているのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」も(五芒星を意図して描かれたものではありませんが)人体への五芒星(黄金比)の反映を語るときによく例示されます。
私は、数「5」は生命または人間と関連しているのではないかと考えています。
6
平行。調和。完全数(1+2+3=6)。宇宙の数。 四方位+天地。六根。六大(地水火風空識)。六力(流動・循環・連鎖・構造・均衡・湧出)。天地創造の六日間。「すべての数の中で最も生産的な数」(フィロン)
・六芒星
対極の統一
△男性原理(男性器)火、天
▽女性原理(女性器)水、地
創造、変化、バランスをもたらすもの、完全な均衡、結合、結婚
異質なもの、対極するものが結合することで、まったく新しい何かが生まれるイメージですが、両者正反対というわけではありません。双方とも上下逆の正三角形であらわされますから、ベクトルは異なっていますが、根本的・本質的には同じものということになります。
偶奇で両部の曼荼羅を取り上げましたが、両者もその本質に大日如来をいただき、ありのままの世界と、そのありのままの世界の中心(自己の本当の中心)への接近のための方法論を説くものであり、両者の統合によって「梵我一如」が達成されます。その構造は六芒星の示すものと同じです。
・チャクラのアナーハタ
チャクラについては、コミックスのネタにもなっていますので、ご存じの方も多いかもしれません。
脊椎に沿って存在するという霊的中枢のことです。この中枢は、七つですので「なんで6?」と思われるかもしれませんが、四番目、真ん中のチャクラが六芒星であらわされるのです。
会陰にあるといわれるムーラーダーラ(根を支える)、性器の部分にあるスヴァーディスターナ(自分の特別な住居)、へその部分にあるマニプーラ(光り輝く都市)、そして心臓に部分にあるアナ―ハタ(ぶつかっていない)です。それから、喉のヴィシュッダ(浄化された〜偉大な開放の入り口)、眉間のアージュニャー(支配〜有分別三昧)、頭頂部のサハスラーラ(千葉蓮華〜無分別三昧)で七つです。
チャクラが現実にあるものかどうか、正直私は一部しか感じたことがないので何とも言えないところですが、マンダラ形象としては非常に魅力的ですし、精神の発展段階の比喩としても面白いものです。と、言ってもキャンベルの「神話のイメージ」の解説の受け売りではあるのですが。
アナ―ハタより下にある三つのチャクラ、会陰のムーラダーラは眠りの世界で、その眠りの中にあるクンダリニー(蛇の女神)をいかにして目覚めさせ、脊椎に沿って上昇させるかが課題となります。クンダリニーが目覚めないということは、人生の目的は「眠り」ということになります。
性器のスヴァーディスターナは、性的欲求をつかさどる中枢で、クンダリニーがここにとどまると、人生の目的は性欲を満たすことになります。
ヘソにあるマニプーラは、戦う、食べるというイメージで、クンダリニーがここにとどまれば、世界を焼き尽くして支配し、自分のものにするのが人生の目的になります。
このように下三つのチャクラは「すべての人間が天真爛漫に包み隠さずこの世を生きてゆく、その生き方を表すものである」と、キャンベルは言います。
肉体人間として、肉体の認識と欲求のままに生きる彼は、「人間と世界はモノである」と信じる人たちの共通認識「金と権力、安逸と快楽、偽物の平和が人生のすべて」と思い込まざるを得ません。個は個で、それ以上でもそれ以下でもなく、バラバラであるがゆえに自分または自分の属する利益集団の利益のみ優先され、自由なようで、実のところ牢獄に幽閉されたような人生を送っていることに、全く気付けないまま終わってゆくのではないでしょうか。
しかし第四チャクラ「アナ―ハタ」に至って彼は変貌を遂げます。
アナ―ハタは「ぶつかっていない音」という意味で、つまり空気が声帯に当たる、または物同士をぶつけることで発せられる音ではない〜宇宙の神聖音のことです。万物はこの神聖音から生成されます。
アナ―ハタは12枚の花弁を持ち、描かれた種字はすべて「風」(音)を現しています。カモシカも風の神ヴァーユの乗り物です。
六芒星、そして、その中の種字yamのなかにシヴァ神のリンガム(男性器)を収めたヨーニ(女陰)が収まっています。どちらも「結合」のシンボルです。対立していたものが結合し、右でも左でもない第三の道が開かれ、新しい生命を持つ創造的現実が誕生し、下位三つのチャクラの間で堂々巡りしていた行き止まり人生から出てゆくことができた──ということになります。
ここに至って、人間は物質宇宙から霊的宇宙に参入してゆきます。
バラバラだった世界は、一つにまとまり、宇宙の中心に続く道が開かれてゆきます。
個を超えて、他との、または世界との一体性を感じられるようになります。
どうしても解決できなかった問題にも道がつくようになるでしょう。
すべて、世界に対して彼が開かれたからです。
(下にある樹は「願望充足の樹」で、宇宙の中心を表す生命の樹です。願望は肉体人間のこの世的な欲望のことではなく、魂の願いです。つまりアナータハに至る〜アナータハを発見すると、初めて「本来の願い、転生してくる魂の抱いた人生の目的」が明かされるということではないでしょうか。それまでは眠り(楽)・性・権力欲など、物質に埋められた肉体人間の限定された目的しかなかったからです)
またアナーハタは下部三つの「地」のチャクラと上部三つの「天」のチャクラを結ぶものとも考えられます。天地は繋がれなければならない。それは人間の全体性を回復することです。
宗教の様々な修法は、全てこのために存在します。
・宇宙を支配する6つの数
かなり以前に読んだ本なのですが、宇宙にはその大きさや密度、構造などを決定づける六つの数値があり、それがほんのわずかでも異なっていると、今の宇宙は存在できなかったようです。
二つは基本的な力に関するもの。二つは宇宙の大きさと全体の組み立てを定め、宇宙がいつまでも続くかどうかを決定するもの。残り二つは空間そのものの特性を定めているもの。
正直あまり理解していないのですが、一応ご紹介します。著者のマーティン・リース氏は英国の著名な宇宙物理学者です。
@「N」
原子をまとめる電気力の強さを、原子間に働く重力の強さで割ったもの。10の36乗倍。
宇宙をとてつもなく巨大に設定するもので、もしNのゼロがもういくつか少なかったら、短命の宇宙しか存在しなかった。物体の大きさによって働く力が変わり、人間サイズでは電気力のほうが重力より強く作用し、惑星サイズになると重力のほうが強く作用するようになる。Nのゼロが少ないということは、重力の影響が強くなって、人間サイズでも自重でつぶれてしまうということ。そのため、Nが小さい世界では、複雑な生物は生まれないし、進化を遂げる時間も無い。
A「ε」(イプシロン)
核力。原子核を結び合わさっているか、全ての原子がどのように組み立てられているかをつかさどる。その値は0.007である。
核融合率(水素ガスが核融合してヘリウムに変わるとき、エネルギーに転換される質量の割合)のこと。このεを越えるエネルギーがないと、核融合はできない。εを越えたから核融合を起こせ、水素からヘリウムを、ヘリウムからベリリウムを、炭素を作れる。εは星の寿命を決定する。
このεが、現在の0.007より小さいと、たくさんの陽子と中性子を持った原子は安定せずすぐに崩壊してしまう。逆に大きければ、重い原子も安定するが、今度は水素が消費されすぎて、枯渇してしまう。
B「Ω」(オメガ)
宇宙の密度、宇宙の素材(銀河、ガス、ダークマター等も含めて)の分量を決める数。少なくても0.3で、膨張エネルギーに対し、重力のエネルギーが相対的にどれだけ大きいかがこのΩからわかる。
この比率ある特定の臨界値に比べ大きすぎたならば、宇宙はとっくに崩壊し、逆に小さすぎたならば、銀河も星も生まれていなかった。最初の膨張速度は実に微妙に調整されていた。
C「λ」(ラムダ)
反重力。自然界で最も弱く、不思議な力。この力が宇宙の膨張をつかさどっていた。真空の生み出す斥力?十億光年以下の尺度ではほとんど影響がない。宇宙が暗く希薄になるにつれ、重力と他の力は益々λに負けてゆく。
幸いなことにλの値は非常に小さく、そうでなければその効果が銀河と星の形成を止めてしまい、宇宙が進化することはなかった。
D「Q」
重力と静止エネルギーの比。10のマイナス5乗。
星、銀河、銀河団等、宇宙のすべての構造の種は、ビッグバンの時にまかれた。その最初のさざ波を作り出したのがQ。宇宙の構造は、数Qによって決まる。これは二つの基本的なエネルギーの比であり、その値はおよそ0、00001。
Qの値がこれより少しでも小さかったら、宇宙は活動に乏しく、何の構造も持たなかった。逆にQが大きかったら、宇宙は激しく渦巻き、星も太陽も生き残れず、ブラックホールに支配されていたとのこと。
E「D」
空間次元の数。値は3。Dが2か4だったら生命は存在できない。
例えば3次元では、生き物は消化管を持つことができるが、2次元では分断されてしまう。貫通する管を持てるのは3次元(立体)だからである。
時間は第四の次元に相当するが、矢が組み込まれている点で空間の三次元とは異なる。我々は未来に向かって進むしかない。
以上です。
宇宙はこの六つの数値が微妙に調整されているからこそ、現在の生命が生存可能な宇宙になっています。わずかでも違っていたら、現在の宇宙は無いということです。
著者は科学者ですので、こう言う精密な調整の理由を、マルチバース宇宙論に求めています。私は超越的な存在による創造を指示しますが、理由は単純で、マンダラがそういう宇宙の有り様を示していること。そして、神仏は感じようとすれば感じることができますが、マルチバースは感じようがないからです。
絵は物理の本によく出てくる「ウロボロスの蛇」に、六つの数を組み込んだものです。
「7」
奇数。陽。完成。保証。無事。豊富。七大天使。七不思議。七福神。
3(天、魂、神聖)+4(大地、肉体、現世)=7 霊的なものと地上的なものを併せ持つ一番若い数。聖書では3と4に分けられる7は完全数と考えられている
天地創造の6日間に続く安息日。
チャクラの数。最後のチャクラ。千葉蓮華。修行の完成。
聖書には執拗に7が出てきます。
箱舟に乗せる動物の数は、清い動物(生贄に捧げる動物)は7つがい、清くない動物は1つがい。
モーゼの前に神が現れたのは七日目。
黙示録では最後の審判を免除する七つの封印を七天使があけるとき、七本のラッパが鳴り響き、七つの首を持つ獣に乗った緋色の夫人が七つの丘で休むときに来る。
新約でも、ペテロがイエスに「7の70倍(つまり永遠に)許しなさい」と言われています。
これらから7は「聖と俗を区別する潜在的基準であった可能性がある」(中国神秘数字)そうです。また、天地創造、チャクラなどから「完成、到達点」を現しているようにも思えます。
8
偶数。陰。八方位。正六面体。四方八方(すべての側面)。極大。全体。最も神聖な女性数。聖母。ガイア。生産性。肥沃。繁栄。幸運。法律。神的で神聖な正義。
キリスト教の7のように、仏教で頻出する数。
八万劫、八十億劫(ほとんど永遠に近い時間の単位)
八大竜王、八大金剛、八大明王、天龍八部・・・。
八万四千も「多い」という意味でよく使われるようです。
八万四千法門 宗派の多さ
八万四千法蔵 経典の多さ
八万四千法衆 僧の多さ
八万四千由旬 須弥山の高さ
八万四千煩悩 煩悩が多すぎること
仏舎利は八万四千に分けられ、八万四千の宝瓶を作り、八万四千の仏塔をたてた。
八正道、八戒のように規範、拘束を現すと同時に、上記のように極大の意味もあります。
八正道は仏陀の説かれた涅槃に至るための八つの徳目で、非常に深遠な内容を持つものですが、その実践により、無明を破砕して、涅槃の世界に参入してゆきます。
八葉蓮華は中心の大日如来からの八方向への放光を現しているとも解釈できます。8は仏の功徳を世界にいきわたらせるための数でしょうか。
・日本では、八百万、大八州、八雲、八重桜など、漠然と数が大きいという意味でつかわれます。
・八卦
古代中国人は、8×8の六十四卦で世界の諸力を表そうとしました。
私も易に凝ったことがありますが、偶然なはずの卦が、意味を持って現れますので、易の神様と話をしているような気がしたものです。易の神様に聞きたいことがあったら、ネットに易を詳細に解説したサイトもありますので、やってみるといいです。コイン三枚で簡単に立てられますので。
占いにもいろいろありますが、易やタロットなど「偶然」が絡むものほど、占術としては優れていると感じます。「ナントカ占星学」とかコンビニに並んでますが、そういうのだと、その占術を構築した方が、宇宙のすべてを知り尽くしていないと正しい答えは得られないはずです。素朴な疑問ですが。
以上から、8は巨大さ、霊性を伴う世界、全体性、完全性を現していると感じます。
9
奇数。陽。強力な3の累乗。三倍神聖。完成、成就、達成、八方位の中心。
・ピタゴラスによれば他のすべての数がその中にあり、循環するので数の限界とされる(これはNumber9で確認しました)。
ヒンドゥー教は、9×9=81の四角形からなるマンダラで、宇宙全体を現します。
北欧神話のオーディンがルーン文字魔法文字をつかみ取るために苦行を行った日数。
ケルトの八方位の中心。
洛書(最初の魔法陣)は九つの数字から作られます。
胎蔵界曼荼羅の大日如来の座。
金剛界曼荼羅が九会に分けられたのは、中国に入ってからですが、中国には9を特別視する伝統があり、そのため恵果師(空海の師匠)が考案されたもののようです。
九は完全、多数、超俗的性質を備える。天地の至数。
九は究極の天数と陽数。
九天は神仙のいる最高の仙境。
1から9までの数の中で最大の数であり、陽数であるので、特別に神聖視されたのでしょう。水滸伝の宋江に、天に代わって道を行うことを頼んだのは九天玄女でした。
上座部仏教では禅定には九段階あるとされます。四つの色界の禅定、四つの無色界の禅定、そして9番目の滅尽定です。
私もGLAで、悟りには最後の観自在まで、九段階あると学びました
また唯識では八識を立てますが、第九識アマラ識が論じられることもありました。
眼(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、身(触覚)、意(心)の六識に加えて、末那識(まなしき〜下層意識、汚れの意)、阿頼耶識(あらやしき〜蔵識、潜在意識、無意識)の更に奥に、阿摩羅識(あまらしき〜清浄識、無垢識とも言い、仏性の出どころであり、真如であるから真我、如来蔵、心王とも呼ばれた)があるというのです。玄奘は否定していたらしいのですが、究極の到達点として考えられていたようです。
以上から9は究極の数、到達点、そして私は大日如来、神、大いなるものの数と考えております。そしてNumber9で、シグマ化された九九の表を見ると、1から8までの数は1と8,2と7,3と6、4と5が対称になっておりましたが、Σ9と0の性質が似ているところから、9の対称数は0ではないかと考えています。究極の有と究極の無が対称となっているわけです。
これで数の探求を終わります。
あとは、0から9までの数とマンダラと神理がどうつながったかを描いてまいります。