数のマンダラ
これよりは0から9までの「数のマンダラ」を用いて、曼荼羅宇宙と現実の宇宙、生命の照応関係を考えてゆきたいと思います。そこでまず、今まで確認してきたことをおさらいしてみたいと思います。
・すべての自然数は一桁の数の還元できること。
326→3+2+6=11→1+1=2・・・326=2である。
一般的には「数字根」と呼びますが、私はNamber9の著者、セシル・バルモンド氏に従って、「Σ(シグマ)」と呼びたいと思います。
この方法を用いると、数の世界は極限までシンプル化され、1から8までの数は、最大の数9の中に内包されると同時に、その支配下にあることがわかります。
・次に、掛け算九九の表をΣ化すると、1から8までの数が、1と8、2と7、3と6、4と5という風に、偶奇が完全な対象になっていることがわかりました。偶数奇数が「セット」になっている、または最初から、「同一のものの別々な側面」とも言えます。
またこの中で、9の分子ともいえる3と6に特別な地位?があることもわかりました。他の数とは異なる性質・特性があります。
そして最後に、シグマ9と0の性質が似ていることも確認しました。「Number9」には9の対称に関しては出てきませんが、私は9(奇数)の対称数が0(偶数)であると思っています。
それぞれの数の一般的な意味については「数の探求」の項をご覧ください。
では、始めましょう。
0
偶数
対称数9
角度0°
「神。無。空。法。理。道。大日如来。永遠。無限」
対称数は9。
1と8の対称は「ウロボロスの蛇」などでいくらかイメージできます。極小と極大が一つになった「全宇宙」です。でも0と9はどうでしょうか。
「全宇宙」以前。
宇宙は無から生まれる。無に遍満する発生源不明のエネルギーから。そしてそのエネルギーは「無限大」です。その時点でもう我々人間の思惟を超えています。
私は0-9の対称は、神仏そのものを現しているのではないかと感じます。
大宇宙の生命。
世界の基底にあり、世界と我々に生命を与えるもの。
宇宙の中心で法を説き、我々に呼びかけるもの。
マンダラの中心にして一切。
無。空。神。法。理。道。
大日如来。
指導原理。
高橋信次先生は宇宙を大神体とし、その宇宙意識を「大宇宙大神霊・仏」と呼び「愛と慈悲の塊(かたまり)」と一言で表現されておられました。
高橋佳子先生は、著書「新・祈りのみち」の「神への祈り」の項で、神について、このように語っています。
「あなたにとって神の存在とはどのようなものでしょうか。
法則のようなものでしょうか。それとも調和する宇宙の姿でしょうか。あるいは語り掛ける神でしょうか。沈黙する神でしょうか。愛に根源の存在か、それとも光そのものの神でしょうか。
人間の長い歴史の上に、神は様々な姿を持って立ち現れてきました。人々も数えきれない神のすがたを求めてきました。
けれども、その底で一つになっているもの──。それが神の存在なのではないでしょうか。
神は、一切の法則というすがたを持ちながら、同時に人間のように関わられます。
沈黙し続ける存在であると同時に語り掛け、はたらきかけてくださる存在です。
血と場所に根ざした様々な神がどうして受け入れられ、大切にされ続けてきたのでしょうか。
それは、この一つ一つが真実を含んでいるからではないでしょうか。
個々の神の像(イメージ)は人々と神仏の接点であって、その側にあるのが、神そのものです。
伝統的な神の像を受け入れることができなくても、神のかかわりの手を見ることがあります。漠然と、神を感ずることがあります。
偶然とは言えない、自分の都合の良いときばかりではない、神のかかわりの手としか言いようのない出来事、誰もが経験している様々な神仏の実感──。
それが神を本当に受け止めるための大切な光なのです。把握するより感ずることから、神への道は始まります。」(「新・祈りのみち」784Pから786P)
人間の思考を超越しているからこそ、神、宇宙神なのではないでしょうか。
そして、それは「感ずること」から始まります。
1
奇数
対称数8
角度360度(Σ9)円。
「極小。宇宙卵。ウロボロスの蛇の尾」
極小は量子ということになるでしょうか。粒子と波の性質を併せ持つ極微の粒子を、量子と呼びます。その先が量子エネルギーです。
宇宙の始まりにおいては、正と負のエネルギーが平衡状態になっていて、そのバランスが崩れたとき物質が生まれビッグバン宇宙が誕生した・・・ということです。その平衡状態は、神話の「原初の混沌」に擬せられるかと思います。高温、高圧、高密度の宇宙卵の状態です。アダムとイブもその中で眠っています。
ウロボロスの蛇は、自分の尾をかむ蛇で、物理の本などで宇宙の構造を説明するのによく使われます。(数の探求6の項で描きました)
頭は極大〜銀河団とかグレートウォール(宇宙の大規模構造)、尾は極小〜素粒子とそれを構成するクォーク、プランク長さ(超ひもの長さ、最小の単位)、口の上にUNITY(統一)とかGUT(大統一理論)と書いてあるのが多いのですが、大統一理論が、極微と極大をつなぐということなのでしょう。
ただ、そのつながりを、数式だけで知りうるのでしょうか?
知性だけで知りうるのでしょうか?
私は疑問に思っています。
2
偶数
対称数7
角度180度(Σ9)分割線。
「分割。二元の誕生」
2の「分割」によって宇宙卵が割れ、宇宙が誕生しました。
聖書の「光あれ」という神の言葉と共に天地が分かたれ、世界が創造された瞬間です。
一切が分割されました。あの世とこの世。天と地。過去と未来。陰と陽。遠いと近い。大きいと小さい。有限と無限。生と死。男と女。闇と光。正と不正、敵と味方・・・・。
時間が過去から未来へ一方向にしか流れないのは、この宇宙が二元の対立という性質を持って生まれたからです。
その宇宙はありとあらゆる事物一切が二元の対立という性質を最初から持ち、後々登場する人間は、その中で悪戦苦闘することを宿命づけられます。
世界の開闢〜二元宇宙の誕生は「2」によって行われました。でもまだ命が宿っていません。二元の対立という「性質」があるだけです。(なぜこの対立の世界、二元宇宙が誕生したのかは、対称数である7の項をご覧ください)
3
奇数。
対称数6
角度120度(Σ3)三角形。
「神=生命=創造」
3は対称数6同様、神の分子であり、世界を創造し、その生命を与えるものです。
私は2によって誕生した二元宇宙に、神がその生命として宿られることと考えます。
そして生命世界が誕生しました。
聖書の創世記では、神は天地を分けられた後、大地・海・植物・動物そして人間と、命ある者たちを創造されます。でもそれは、泥をこねてお創りになったわけではなく、それら一切のいのちとして〜曼荼羅宇宙の中心核として〜神が宿られることで生じたのではないでしょうか。
「神は悟った。私こそ創造だ。私自身からそれを生み出したのだから。こうして神は創造そのものとなった。このことを知るものは、創造者となる」(インドの古典ウパニシャッドの言葉〜ジョゼフ・キャンベルによる)
そして創造とは「事物に生命を与えること」です。
ですから、二元で誕生した宇宙に神が宿られ、自ら宇宙の生命となられた・・・ということになるかと思います。
つまり、宇宙に、生命は一つしかないということになります。
「神の生命」です。
存在物・・・動植鉱物一切と私たち人間は、同じ神の生命といういのちを共有しているのです。だからこそ、魂は永遠不滅です。根底に神がいるから・・・。
私はどうも苦手なのですが、禅定や瞑想で、深い境地を感じたことのある方は、その宇宙の唯一の根源的な生命に接近したということではないでしょうか。
例えば、敵対する個人や、地域、国の国民同士が、実は同じ生命=神の生命を、魂の根底で共有していることに気づくことができたら?
そのつながりに目覚めることが、人間の生そのものに課せられたテーマではないかと思います。
4
偶数。
対称数5
角度90度(Σ9)正四角形。
「自然界」
3で神が宿られ、創造された世界です。
いのちある宇宙。大自然界。
9の項で高橋佳子先生のお言葉を引用させていただきましたが、万物に生命が宿っています。私たち動植物だけでなく、路傍の小石にも命が宿り、宮沢賢治のような人は、その声を聴くこともできたのではないでしょうか。
5
奇数。
対称数4
角度72度(Σ9)五芒星。
「人間」
5は生命と関連していると書きましたが、私にとって「生命=魂」です。
生は肉体に魂が入ること。その魂が〇野▽男と名付けられ、〇野▽男としての人生を生きること。
死は、生命活動を止めた〇野▽男の肉体から魂が離れることです。
高橋信次先生は、人間の本質は「魂(智慧持つ意志のエネルギー)」であると言われました。神が永遠であるように、魂は永遠の存在であり、自己の確立と世界の調和という使命のために、あの世(実在界)この世(現象界)の転生輪廻を繰り返すのだと。
また魂は、本体一人と五人の分身によって構成されるともおっしゃいました。中心に本体を持つ五芒星を連想してしまいます。
私は5は「人間」を表しているのではないかと思います。
本能で生きる動物たちは、植物鉱物同様、ただ生きるだけで「ありがたい世界の現成(げんじょう)」という使命を果たすことになるのだそうです。彼らは4で表される大自然界の完全な一部です。
しかし、我々人間には「想い考える力」があります。創造力という神の権能を分かち与えられています。動物レベルでただ生きるだけでは、結局その権能を自利のために用い、世界をゆがませ、自然界を破壊し、自らの首を絞めることになります。
そして、それは今、誰しもが感じていることではないでしょうか。
6
偶数。
対称数3
角度60度(Σ6)六芒星。
「神の子」による第二の創造・結合・飛躍・奇跡
対称数3による「第一の創造」は、神ご自身によって行われました。
数6による「第二の創造」は、私たち「神の子」によって行われます。
「神が創造そのもで、人が創造されたものだと知ったとき、人は創造の原理と一体となります。人間の中には、神の力が存在するんです」(ジョゼフ・キャンベル)
神の子はついに、下部三つのチャクラを超えて、中心の結合のチャクラ「アナ―ハタ」に到達しました。
この宇宙の宿命である二元を凌駕し、第三の道が開かれ、新たな世界を目にし、新たな地平に飛翔します。それは奇跡の起こる瞬間です。奇跡といっても、空を飛んだりすることではありません。
出来なかったことが、出来るようになること。
許せなかった人を、許せるようになること。
とても行けなかった場所に、行けるようになること。
どうしてもわからなかったことが、わかるようになること。
愛せなかった人が、愛せるようになること。
人に言えなかったことが、言えるようになること。
孤独な人が、親友を得ること。
他人や世界に、心底感謝できるようになること・・・・。
際限なく考えられますが、それは二元の分離、対立を超克することです。
それは「神」に出会うことです。
物質の牢獄の中にいて、なおかつ「神」に出会うことだから奇跡なわけです。
人間の生の目的はこれのみと考えます。
個々の人生に、第二の創造が行われれば、間違いなく世界は輝きを増し、活気づきます。神の子としての本性が現れますから、個々の人生も輝くでしょう。
それは生の目的の達成でもあり、本当にあこがれるところです。
心の自由を獲得するということは、世界への飛翔を意味します。本当の自分として生きることができるということです。魂を縛る業(カルマ)を打破して、あの世にいたとき願いに願ったであろう、その願いに生きることができるようになるのです。
でも、実は恐るべき強敵が立ちふさがっています。自分の心の中に・・・。(これは別項に譲ります)
7
奇数。
対称数2
角度 51.428571 428571 428571・・・(循環節4+2+8+5+7+1=27をシグマ化するとΣ9)七芒星。
二元の超克。自由の獲得。天使または菩薩の誕生。
6の飛躍によって、無明の闇に閉じ込められていた魂は自由を獲得します。
描かれているのは七芒星ですが、5体+2で、私には翼に見えるのです。
昔聞いたところによると、天使の翼は「魂の自由のシンボル」として神から与えられるものなのだそうです。
仏教の菩薩は多臂(たひ〜腕が多いこと)ですが、複数のことが同時にできるということは、心が自由じゃないと無理ではないでしょうか。
対称数が2なのは、つまり、この二元が対立する宇宙が、神の子らが魂の自由を獲得するためにこそ設定されたということです。対立と苦難に満ちたこの世は、それをぶち抜けて飛躍するためにこそあるということです。
それが魂の進歩・成長につながります。世界はそのために創造されたということになります。
高橋信次先生は「世界は魂の修業の場として創られた」と言われていました。
あの世では修行にならないそうです。意識の世界なので、いけないと思うとすぐ修正されてしまい、抜本的解決にはならないのだとか。本当に自分を変えられる〜心を修正できるのは、この世だけなのだそうです。
高橋佳子先生は「波のように静かな世界」と表現され、霊としての生活には「直接の経験」がないため、魂たちは、肉体を持って生活することに切ないほどのあこがれを持つと言われます。
ひっぱたかれて痛かったり、みんなで酒を飲んでわあわあ騒いだり、憎いあいつと殴り合ったり、異性に惚れてひどい目にあったり、上司に叱られてしょんぼりしたり、友達のおかしな話におなかを抱えて笑ったり、美しい風景を見て心底感動したり、おふくろ親父が早死にして「墓に布団は着せられず」とどうしようもなく後悔したり、九死に一生を得て神さま仏さまに感謝せずにいられなかったり・・・そういうことすべてが、あの世では決して手に入らないことなのだそうです。
この世にいて、肉体を持って生きているからこそ体験できることなのです。
だから、どうなるかわからない、とんでもない後悔を背負うことになるかもしれない、あってはならない自分と出会わなければならないかもしれない・・・それでも、生まれて来ずにはいられない。この世に、ダイビングせずにはいられない。どんな結果になろうとも。
自分を変え、魂の自由を獲得するために。そして根源的な魂の願いを果たすために。
そして魂の自由を得て、翼を獲得しても更に先があります。
七芒星の角度は循環小数になっています。無限に小さくなってゆきます。天使の翼をもらっても、より深く、細かく、繊細に・・・。
神への道は、永遠の道のりです。
8
偶数。
対称数1
角度45度(Σ9)八芒星。
極大。ウロボロスの蛇の頭。全宇宙(二つの世界)。
極小と極大、暗在と明在が織りなす「全宇宙」。
八芒星は、星形正八角形と、二複合型正四角形の二種に分かれます。
星形のほうは大日如来の座す八葉蓮華に見えます。仏の光が八方に放たれて、世界を隅々まで照らしています。
複合型は正方形二つが、90度(Σ9)ずれて、重なっています。
二つの世界。明在系と暗在系。目に見える世界と見えない世界。現象界と実在界。あの世とこの世。
2の「二分する力」によって、一なるものが二つに分かれた結果として生まれた「二つの世界」であると思います。
この二つの世界が90度ずれて再びピタリと重なるならば、あの世この世の境がなくなるのではないでしょうか。本来この二つの世界は、一つとして輝くものであるから星形八芒星の輝きがあると思います。
手前のひし形はこの世で、地球を中心に太陽と星々と銀河群、銀河団やさらにそれが重力的に連なったグレートウォール(宇宙の大規模構造)から観測な能な宇宙すべて。(その先どれぐらい巨大かはわからんそうです)
バックに「暗在」しているのは、あの世・魂の故郷・実在界です。
9
奇数。
対称数0
角度40度(Σ4)九芒星。または円そのもの。
神。無。空。法。理。道。大日如来。永遠。無限。
数のマンダラの旅もいよいよ最後です。
一切数を包含する9は数の主であり、神であり、法であり、道であり、大日如来であり、始まりであり終わりであるものです。
神秘数0を対称に持ち、無限大のエネルギーを秘め、時空をはるかに超えて、今、私の内に永遠として感じられるもの。私たちの根であり、親であり、母体であるもの。
9は極大を凌駕し、0は極小を凌駕します。それがいったい何なのか、私には見当もつきません。
神としか呼びようのない、「なにか」です。
高橋佳子先生の、「神への祈り」の続きです。
「宇宙をつくる物質。その物質界に人間は動植鉱物という区分を作りました。鉱物、植物、動物は私たち人間にとっての同胞であり、根です。点的生命である鉱物、直線的生命である植物、平面的生命である動物。そして私たち人間は立体的生命と考えることができるでしょう。
そして神は超立体的な生命というべきものです。立体的生命である人間にとって、矛盾にしかならないことが神においてはまったく矛盾もなく共存しています。法則としてあること、そういう、もの語らぬ存在としてあり、同時に私たちに常に呼びかけ、働きかける存在として在ります。
裏と表、動と不動、偶然と必然、光と闇、内部と外部……。これら対立、断絶するものが、同時に神の姿となって現れます。何の矛盾もなく、それらを包み込んであるのが、超立体的生命である神。神は流れ続ける永遠の生命であり、一切の源なる生命です。そして個々の生命、私たちの生命でもあるのです。
私たちは常にこの底につながる神のすがたへと降りてゆかなければならないのです。
何も欠けることがなく、一切に宿り、一切を含み、一切を生かし、一切全体である神に向かって、私たちは祈ります」(新・祈りのみち786Pから787P)
以上でマンダラの旅は終わりです。
6で書いた「強敵」に関しては「ドラゴン退治のために」をご覧ください。
次は、対称数の示す宇宙と生命の在りよう、その中での人間の道行きについて考えたいと思います。